花子のしつけ

 「花子,お茶をお出ししなさい.」
 花子は大学のレポートを中断し,テレビを見はじめたが,母からの一言でそれを
やめめざるを得なくなった.ようやく休憩に入ったのに面倒なことをしなければな
らないことの不満が顔に出ているのを感じていた.そもそも,自分の友人が尋ねて
来たのだから,話に夢中にならずに自分でそのくらいのことをやっても良さそうだ
.そう思いながらも,しぶしぶと台所に行き,煎米と湯飲みと急須を盆にのせて客
間の方へ向かう.
 「お茶をお持ちしました.」
 そう言って襖を開けた.と,その時,そこには驚愕した母の友人と,般若のよう
な母の顔が見えた.何故そのような表情をするのか分からなかったが,その目線が
自分の手元に来ているのを見てすぐに分かった.いつもの癖で,盆を片手で持って
,立ったまま襖を開けてしまったのだ.日頃から口うるさい母に言われていたが,
襖をしゃがんで開けるということは,花子にはどうしても習慣化することができな
かった.せめてお客さんが来ている時くらいはそうするようにと言われていた.都
合の悪いことに,その母の友人というのは,茶道の師範をしていて,作法やしつけ
の厳しさでは有名な人であった.母の顔ははじめ真っ赤になっていたが,次第に青
ざめていくのが花子には分かった.母の友人はまた,お喋り好きであるということ
でも有名であり,知人・友人に「おひれ」をつけて話すのを母も花子も知っていた
からである.今回の事も,どの様に伝わっていくか分かったものではない.あわて
てしゃがんで盆を置き,襖を閉めた.
 「ごゆっくりどうぞ.」
 花子は母のそばに盆を移動してから,うつむいたまま早口でそう言い,そそくさ
と客間を出た.当然,襖はしゃがんで開け閉めした.


 「花子,こっちへ来なさい.」
 母は友人が帰ってから,花子を呼んだ.叱られることは間違いない.花子が客間
に行き,母の前に正座するやいなや,右の頬を打たれた.かえす手で左頬を打たれ
た.いわゆる往復ビンタである.
 「日頃からあれだけ言っているのに.母さん,恥ずかしくて仕方ないよ.」
 往復ビンタの痛みと情けなさで,花子の目から涙が溢れ出てきた.
 「ごめんなさい.」
 そう言い残して,花子は家を飛び出した.どこに行く宛てもないが,とにかく家
から出たい一心だった.


 キィィィィィィ…….
 家の門から出たところで,あやうく車に引かれそうになった.左右の確認をしな
いまま,路地へと出て行ってしまったのである.
 「危ねぇじゃねぇか!」
 「ごめんなさい.どうもすみませんでした.」
 車から下りてきた作業着の男性に向かって,そう言って花子は駆け出した.ブレ
ーキ音を聞いた母が家から出てくるような予感がしたからである.また,母に顔向
けできなくなる理由が1つ増えてしまった.
 「ちょっとー.」
 花子はしばらく走っていたが,すぐ横から,先ほどの車の男の声が大きく聞こえ
た.あれから追ってきたのだろう.花子は,逃げるように走り続けた.
 「ねぇー.ねぇーってばー.」
 しつこい男だなと花子は思った.ぶつかりそうになったのは済まないが,今はと
にかく一人にしておいて欲しかった.
 「どうして靴を履いてないのー?」
 花子はその一言を聞いて,はたと足を止めた.一刻も早く家から出たかったため
か,靴も履かずに飛び出してしまったものの,悲しみで気が動転していたために今
まで気が付かなかったのだ.花子は靴下しか履いていない自分の足をじっと見つめ
た.
 「それに…あの…その….どうして泣いているの?」
 作業着の男は,車を下りて花子のすぐそばに来ていた.最後の言葉は,先ほどま
で花子にかけた口調とは違い,ひどくもじもじしたものだった.どうやら,ぶつか
りそうになったこと,一言だけ謝って走り去ったことを怒って追って来たのではな
いようだ.
 「いや….話したくなければ話さなくてもいいです.とにかく,家まで送ります
よ.」
 「え…でも…」
 家という単語を聞いて,母の待つ家に帰るよりも,靴を履いていない今の状況の
方がまだましだと花子は思ったので,どうにか帰らなくてすむ方法を考えた.
 「お仕事の途中でしょ?」
 ワゴン車には「杉田内装店」という塗装がしてあった.さしずめ,仕事現場への
移動中だろう.
 「あ….それなら平気です.今日はもうおしまいですから.とにかく,裸足では
なんだから,車に乗って下さい.」
 「じゃぁ….どこかに連れて行ってよ.」
 花子は,作業着の男から離れるもっともな言い訳が見つからなかったので,とり
あえず家に帰らないようにすれば良いと思った.予想外の返事だったのか,作業着
の男は一瞬驚いた表情を見せたが,すぐに承知した. 
 「そんなに遠くには行けないけど,軽くドライブくらいなら」


 今日は現場の下見をしただけで仕事が終わってしまったこと,店は自営業で,照
明から畳,台所などの屋内の内装品なら何でも取り扱っていること,小さい頃から
社長である父の手伝いをしていて,中学を出てからすぐに本格的に仕事を始めたこ
とを話してくれた.また,お客さんの意見を直に聞くことができるので,お客さん
がどんなものを欲しがるのか,どうなっていると使いやすいかをいち早く把握して
,メーカにその旨を伝えるだけでなく,自らのデザイン好きが効を奏して,アイデ
ィアのいくつかが採用されたこともあるそうだ.自分と同い年なだけに,特に目的
があって大学にいっている訳ではない自分とどうしても比較してしまう.
 「何だか,自分の話ばかりしてしまいましたが…泣き止んでくれてよかった」
 ふと気が付くと,家の前に着いていた.いろいろ話を聞いていて,自分がいかに
小さな人間かが分かった.さっきまでは作法ができなくて恥ずかしかったが,今は
,できなかったからといって泣いて逃げた自分が恥ずかしかった.
 「どうもありがとう.内装を変える時はよろしく頼むね.」
 「毎度どうも.」
 花子は,走り去っていく車の後ろ姿を見て,店の電話番号を記憶する事を怠らな
かった.


 それから,花子は杉田と交際を始め,数年後,二人は結婚した.その後,娘が生
まれて20年の歳月が流れた.
 「裕子,お茶をお出ししなさい.」
 花子は,大学時代の友人が久しぶりに尋ねてきたので,娘の裕子にお茶を出すよ
うに頼んだ.
 「お茶をお持ちしました.」
  しばらくして,裕子が客間の襖を開けた.片手で煎米と湯飲みと急須を盆を持っ
て立ったままのその姿を見て,花子は愕然とした.日頃から,礼儀作法には口うる
さく言っており,せめてお客様の前ではきちんとするように言っているのだが,い
っこうに改まる様子がない.
 「裕子,こっちへ来なさい.」
 花子は友人が帰ってから,裕子を呼んだ.裕子が客間に来て,花子の前に正座す
るやいなや,右の頬を打った.かえす手で左頬を打った.いわゆる往復ビンタであ
る.
 「日頃からあれだけ言っているのに.母さん,恥ずかしくて仕方ないよ.」
 この時,花子は20数年前に,自分も同じ事を言われたのを思い出した.そして,
一つの考えが思いついた.襖の取っ手の位置が高すぎるのだ.立っていても取っ手
に手が届くから,どうしても立ったままで襖を開けてしまう癖がつくのだ.幸い,
うちは内装店である.取っ手の位置をもっと低くするように,夫に頼んでメーカに
注文すればその通り作ってくれるはずだ.早速夫に話して,メーカに作ってもらう
ことにした.
 何日かたって,メーカから襖が届いた.花子は早速,客間の襖を取り替えた.無
論,家中の襖を取り替えようとしていたが,客間の襖を取り替えた時点で母が尋ね
てきた.
 「花子,元気でやっているかい.」
 「はい.お母さんも元気そうで.裕子,お茶をお出ししなさい.」
 花子は,取り替えた襖の効果を早速試す時がきて,内心うきうきしていた.早く
裕子がお茶を運んでこないものか,実際は短いその時間が非常に長く感じた.花子
は,目を瞑ってじっと待つことにした.
 「お茶をお持ちしました.」
 襖がすーっと開く音がする.裕子はこれから作法をきちんと習慣化することがで
きるに違いない.
 「まぁ!」
 母の驚きの声が聞こえたので花子は目を開けた.作法がきちんとできている我が
孫の姿に感激しているのだろう.
 花子が襖の方を見てみると,そこには襖を足で開ける裕子の姿があった.