Date: Sun, 3 Dec 1995 16:20:48 +0900

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bogomil's CD collection #5     [―――――◎―◎]
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リスト:後期ピアノ作品
リストのピアノで聴くリストのピアノ曲のリスト

 楽譜に書かれた記号は音楽そのものではない。その記号に基づいて、演奏家が具体
的に音にして初めて、音楽となる。しかしこの「具体的に音にする」やり方は多種多
様。それは、5線記譜法に欠落している情報が多いからだ。音色に関する情報も、そ
のひとつ。音色は、演奏に際しては、極めて重要な役割を担っている。これは、すべ
ての音楽が具体的に音にならなければならない以上、避けて通ることができない問題
だ。音色が変わると、曲の印象まで変わってしまう、ということも少なくない。そし
て時として、音の構成としての音楽を聴く、というよりも、音色を聴くことが主な関
心事になることさえ起こってくる。

 たとえば、クラシックに限らず、すべての歌手は、まず音色、つまり声の質で評価
される。その結果、好きな歌手の声が聴ければ、どんな曲が歌われようが、お構いな
し、ということになり、たとえば演歌歌手が、ワンマン・ショーで自分の持ち歌以外
の曲を多少下手に歌っても、その歌手の熱烈なファンは喜ぶのである。最近、テレビ
番組で、日本の若手男性オペラ歌手Nが、ジャズのスタンダード・ナンバーを歌って
いるのを耳にした。英語の発音も表現も、アメリカのプロ歌手に比べればお話になら
ないレベルだが、それでも、「彼の声」を聴きたいファンには受けるのかもしれない
。器楽の場合でも、管楽器や弦楽器など、比較的原始的な、つまり人間の身体が発音
に直接かかわるような楽器の場合は、演奏者固有の音色が大きな意味を持つ。

 鍵盤楽器では、やや事情が異なってくる。特にオルガンやチェンバロは、個々の楽
器固有の音色が演奏の質を大きく左右する。これらの楽器の音色は楽器ごとにほぼ固
定されており、演奏者が音色を変化させる余地がほとんどない。これらの楽器の場合
、質の悪い楽器では、何を演奏しても、うるおいがなく、やがて神経が疲れてくるが
、質のよい楽器なら、何時間聴いても飽きないし、疲れない。オルガンの場合など、
何を演奏しようが、その楽器の個性ばかりが耳につく、という場合もある。

 これがピアノになると、同じ鍵盤楽器でも弾き方によって音色が微妙に異なり、演
奏者の個性がある程度音色を左右するが、それでも、声楽や管弦楽器に比べれば、楽
器固有の音色の制約は大きい。鍵盤作品の演奏に際しては、楽器の選択が重要な意味
を持つのである。

 鍵盤作品では、原則として「作曲家の意図した楽器が、その曲の本来の姿を示す」
といってよいだろう。これは、すぐれた鍵盤音楽の作曲家が、いずれもその楽器の名
演奏家であったことを考えれば納得がいく。バッハは、チェンバロやオルガンの欠点
を最小限に抑え、長所を活かすべく、作曲したのであり、同様にショパンやリストは
、ピアノの欠点を最小限に抑え、長所を活かすべく、作曲したのである。

 この音色の問題を具体的に考えるために、今回はリストの愛用したチッカリング社
のピアノで、リストの作品を録音したCDを聴いてみよう*。このCDには、

《愛の夢》第3番、《なぐさめ》第3番
ハンガリー狂詩曲第3番
バラード第2番

といった、比較的よく知られている曲と、

《エステ荘の噴水》(1877年)
《灰色の雲》(1881年)
《悲しみのゴンドラ》(1882年)
《夢の中で》(1885年)
《リヒャルト・ワーグナーの墓に》(1883年)

といったリストの後期の作品が収録されている(リストが没したのは1886年)。

 いずれも、現代のピアノとは微妙に異なる響きで聴かれるが、全体として、音域ご
とに音色と余韻が異なるために、旋律と伴奏のコントラストが明確になっている。高
音の余韻がわずかに短いせいか、音楽が素朴に感じられるから不思議だ。中でも《灰
色の雲》や《悲しみのゴンドラ》の持つ内省的な雰囲気は、適度に柔らかい響きで再
現されていて、落ち着いて聴くことができる。

 そもそもリストの後期の作品には、華麗な(あるいは空虚な)名人芸の誇示は見ら
れないし、ピアノを叩き壊してしまうような激しさもない。それが、チッカリングの
ピアノの響きによく合うのかもしれない。

 筆者はリストの作品を現代のピアノで演奏することを否定するものではない。しか
し、得てして、現代のピアニストが現代のピアノで弾くリストは音がきつくなりがち
で、また華やかさが過剰になりがち。これは、単に演奏解釈や演奏テクニックの問題
によるだけではなく、現代のピアノの音色、音質によるところも大きいのである。現
代のピアニストがリストをどう演奏しても自由だし、また現代の私たちがどういう演
奏を好もうと、それは個人の自由だ。しかしリスト自身がどのような響きを意図して
いたのかを、ひとつの基準として理解しておくことも決して無駄ではないだろう。

*Discography:
Liszt: Piano Works - Dag Acgatz plays Liszt's own piano. BIS-CD-244.(国内発
売元:キング・インターナショナル)

94/5 rev.95/10